小山紀子さんの、ミラー紙を貼り合わせた写真群を天井から吊るしたインスタレーション
「Things for the lost-失ったものたちへの献花-」
今年2月の長岡造形大学卒業研究発表に出展された作品です。
細いテグスで吊るされたオブジェクトは、屋内のゆるやかな気流を受け、
絶えず、どこかが静かに回転していて、
間近で眺めていると、写真なのか、外の景色の映り込みなのか、
わからなくなる時があります。
写真がゆるやかに向きを変えるのと同時に、ミラー面が周囲の景色を映し込みながら現れます。
映り込みに見惚れていると、不意に自分が映し出され、”わたしがいた” と我に返るも束の間、
姿は流れ去り、また何処かを写した風景が立ち現れます。
その移ろう様はスクリーン映像のようでもありますが、映像もまた過去の瞬間の連続であるとすれば、
この作品がみせるのは、まごうことなき今現在の瞬間の連続といえるでしょうか。。
不思議な作用をもつ仕掛けの理由について、紀子さんからコメントをいただきました。
・私が撮影行為・写真表現の中で、
ミラーにて製作しました
KOYAMA Motoko
会場を変えて再びの展示で、また新たな景色を見せたこのインスタレーションは、
「新たな一枚の”写真” 」を生む仕掛けでもありました。
大学での展示の際にも、幾人もの学生とひとつの教室を共有しての展示でしたが、
そうしたことが、この作品には不可欠なのかもしれないと思いました。
独立した空間で、”うつくしい写真群” を見せることがこのインスタレーションの目的ではないのだと、思い至ります。
うつくしさといったら、それはそれは、うつくしいのですよ。
集合体ではなく、ひとつ、ひとつの景色と、その瞬間が。。。
私は、紀子さんの写真とこの場所の風景が交互に立ち現れ、一体化するのを、
飽きることなく魅入っています。
一個人が撮った、極めて個人的な写真を他者に提示することがもたらすもの、
写真という表現を介して、ひととひとが関わるということ、
絵画ではなく写真であることの意味、
写真だからことできること、
フィルムに収めた瞬間の記憶を、どのような形状で、再び見つめるか、、、
見るひとに、何を残すか、、、
様々な問いかけとおぼろげな答えが、吊るされたオブジェクトとともに、
くるりくるりと、ゆるやかに巡ります。
実は、表紙と裏表紙にはクリアな「鏡」が用いられています。